【書評】日銀はいつからスーパーマンになったのか(3)日本破綻論

北野氏は、いわゆる終末論についても手厳しい。

「高齢化→貯蓄の取り崩し→国債の外国人保有比率の上昇→金利上昇→破綻」という「日本破綻論」を「妙な議論」と切って捨てる。
その理由として、株式市場ではすでにそれが実現しているからという。

株式市場では、その保有構造の変化を通して、金融引き締めが進んでいたのである。

バブル崩壊後、PERの低下が観測され、意味するところは資本コスト(割引率)の上昇であった。
これを「金融引き締め」と表現しているのである。
難しいのは、この後で

議論の幅は、せいぜい、それがいつから始まるかに矮小化されてしまうのだ。
もう、債券市場の隣の株式市場ではとっくの昔から始まっているのに、おろかな議論をしているものである。

ここの解釈が難しい。
債券市場における資本コスト上昇が将来必ずあるという意味なのか?
債券市場がバブル崩壊後の株式市場のように低迷するなら、「それがいつから始まるか」が矮小なのか、愚かなのか。
株式を保有していて2割も落ちると、本当にへこむ。
しかし、それが債券だったとしたら、1週間は立ち上がれないだろう。
債券市場の急落は決して矮小な話ではあるまい。

この本において最も思想的であり、難解な部分だ。
この部分、著者の伝える努力が明らかに不十分だと思う。
あるいは、意図的なものなのかもしれない。

北野氏は、日本に「保守」が死に絶えたことを惜しんでいる。
誰もが「改革」を唱え、古き良き日本を復活させようとしない。
こういう現状を見つつ

日本は、復活する。
しかし、それは、アベノミクスで復活するのではない。
まだ我々の目には見えない「保守」が、すなわち、我々自身が主役になって、この国を盛り立てていくことになるだろう。

と唱える。
世の中を引っ張っていく人には、こういう楽観主義が必要だ。
こういう楽観視こそが、人々に希望を与え、道を示すことができる。

かくいう筆者は超がつく現実主義者。
目に見えないものは信じない性質だ。
筆者の目に見えているのは、量的緩和と財政政策。
この国が復活してほしいと切に願ってはいるが、とても断言はできない。

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