【メモ】終戦直後の預金封鎖と新円切り替え

いわゆる「終末論者」たちの国債暴落論がかしましい。
彼らが引き合いに出す預金封鎖・新円切り替えとはどんなものだったろうか。

大蔵省財政金融研究所「フィナンシャル・レビュー」1994年11月号に載った「戦後インフレーションとドッジ安定化政策」(高木信二ら)というペーパーの中でよくまとめられている。

1946年2月16日,第一次総合インフレ対策として,金融緊急措置令を含む「経済危機緊急対策」が発表され,翌日実施された。
・・・・・
まず, 金融緊急措置においては,旧円が新円に切替えられ,預金封鎖が行われた。
すなわち,2月17日(日曜)現在における預金は閉鎖され,旧紙幣は3月2日(土曜)をもって強制通用力を失い,新円との引き換えは2月25日から3月7日までの間に強制預入の形で行われることとされた。
  ・・・(1)
さらに,原則として,標準世帯生計費を500円と置き,一般勤労者の給与等は一か月500円までは新円による現金払,それ以上は封鎖払とされた。
  ・・・(2)
さらに,封鎖預金からの現金引出は,原則的に毎月世帯主300円,世帯員一人につき100円(3月30日からは,一律一人100円)までに限定された。
  ・・・(3)
3月に入ると,3日公布の物価統制令(4日実施)により,標準世帯生計費を500円とする新物価体系(三・三体系)が設定された。
  ・・・(4)

注)(数字)は筆者が付与した。

一文ごと読み込んでみよう。

(1)
ある日曜日をもって預金が封鎖され、その2週後に旧紙幣が通貨ではなくなってしまう。
(硬貨は対象とされなかった。)
新円を受け取りたい場合は、旧紙幣を預金口座に入金する必要があった。
そうしないと、タンス預金は紙くずになった。
これは、別に設けられた財産税法のために国民の財産を把握したいという意味もあったのだろう。
(2)
世帯の生活費を500円と置き、その金額(新円)まで給与の現金払いを許した。
もっとも500円が妥当であったかどうかは疑問がある。
戦争直後は前年同月比で4割を超えるインフレが続いていた。
政府が物価を統制しきるまで、国民の生活は不自由なものだったろう。
(3)
預金の引き出し可能額は世帯主300人+一人あたり100円に限定された。
その後一律一人100円になった。
預金があっても自由には下ろせない状態だった。
(4)
政府が、世帯あたりの生活費を500円にするよう、価格統制を始めた。
裏を返せば、500円という数字が実現できていなかったということだろう。