【書評】河野龍太郎氏 『円安再生』

デフレ悪者論は決着したのか

こうした変化を見ると、つくづく経済学という学問分野が相対的なものであると感じる。
実は、筆者はいまだにデフレが絶対悪とは考えていない。
2003年、河野氏はデフレが根源的問題と指摘しているが、これは金融システムの傷が癒えきっていなかったためだろう。
資産デフレが金融システムに及ぼす影響は悲惨なものだ。
そうした文脈でデフレはマイナスが大きいというなら理解できる。
(ただし、資産デフレとCPI上昇率とはずいぶんと異なる性質の指標だ。)
また、《デフレ・ギャップは悪》というのも理解できる。
しかし、永続的でも極端でもない物価下落であれば、そうした物価下落をすべて悪とする考えは理解しがたい。
強い自国通貨を国益とする国家が存在するように、デフレを(一面で)国益とする局面は存在すると信じている。

物価などというものは、そもそもデフレ的なものと言わざるを得ない。
10年前のPCと今のPC、価格の比較をすることにどれだけの意味があろう。
今5万円のPCと同等の効用を与えてくれる10年前のPCは、おそらく数十万円だろう。
そもそも、同等のPCが存在していたかどうかも怪しい。
ところが、物価上昇率というのは、こうした財の質の向上の勘案をある程度割り切って計算せざるをえない。
(品質調整は行われているが、妥当性を維持するのは容易ではない。)

騒ぐところが間違っていないか

例えば、農産品にしても、高付加価値化が進むなら似たようなことが起こる。
サービス業にしても、サービスの質が向上していれば、価格が変わらずとも本質的にはデフレが進んでいると言えなくもない。
そうした現実があるのに、物価上昇率がゼロのところに特段意識しなければならないのか。
これが、現実社会の感じ方だろう。

むろん、これが虚構の世界である金融経済に話が移ると、ゼロに大きな意味が出てくる。
しかし、乱暴な言い方をすれば、そんな脇役の話で騒ぐのはいい加減にしてほしいというのも本音なのだ。
大騒ぎをするには相応の理由があるのだが、そうなるようにしたのは金融経済自身であり、それを刺激してきた金融政策なのだから。

一歩譲って、デフレが絶対悪だとしても、デフレから人為的に脱出するのが困難だとしたら、国や世界の不幸は決定してしまうものなのか。
デフレを託つ以外に、幸福への道が存在しないのだろうか。

(次ページ: 膠着的なゲームのルール)