【書評】人の心に働きかける経済政策(翁邦雄 著)

『人の心に働きかける経済政策』は元日本銀行金融研究所所長 翁邦雄氏による経済政策論。

(Amazon)『人の心に働きかける経済政策

タイトルから想像されるとおり、経済政策を策定する時に、メインストリームの経済学だけでなく行動経済学的な見地を取り入れることの重要性を説いている。
真面目で正統的な本だが、それでいてとても読みやすい。
様々なエピソードを交え新書というコンパクトな形にまとめられている。

著者の経歴からして、日銀の経済政策への言及は必至だ。
この部分は、日銀には気の毒だが、異次元緩和がなぜうまくいかなかったかというような内容になっている。
決してディスる内容ではないが、当初言われていたほどの結果が出なかったのだからしかたない。
ここで書かれた指摘は日銀に対するものというより「グローバル・スタンダード」と謡われてきたリフレ政策への指摘ととらえたい。

1か所だけ紹介しよう。
日銀が物価目標を2%とした3つの理由のうちの1つ、「のり代」の確保である。
これは、政策金利がとても低くなっても、適度のインフレであれば実質金利を引き下げることができるとの主張だ。
例えば、政策金利が2%、インフレが0%なら、政策金利を0%に引き下げた場合、実質政策金利も0%にしかならない。
一方、インフレが2%なら、政策金利を0%にすると実質政策金利は―2%まで引き下げられ、より大きな景気刺激効果を持ちうる。

翁氏の主張は単純明快かつ正鵠を射ている。

『のり代』はいつ作るのか

のり代を得るためには、インフレであるだけではだめで、政策金利に下げ余地がなければいけない。
ところが、異次元緩和開始後、マイナス金利導入時の僅少な利下げこそあったが、政策金利は基本的にゼロ近傍だ。
日銀は今後も利上げに対して極めて消極的なスタンスを続けている。
ならば、少なくとも「のり代」の議論は(少なくとも日本では)たいした意味を持たないことになる。
実際、この期間、財政刺激策が講じられたことは何度もあり、それは国家として景気刺激が必要とされた時期なのだろうが、金融政策が強力な追加緩和を行ったとの印象は薄い。
(結果的に降参した量の拡大を行ったことはあった。)
明日の雨のために傘を用意(利上げ)しておかなければ、雨が降り出した時に差すものがない。

本題はこの先だ。
現在、ほとんどの人が金融政策によるインフレ誘導が困難であると考え始めている。
一方、財政政策がインフレを誘導しうると確信し始めている。
ここで翁氏は、将来の財政・金融政策のフレームワークについて1つの可能性を呈示している。

2017年6月のスティグリッツらのインフレ目標引き上げ提言の延長線上の議論として、金融政策では高めることのできなかったインフレ率を財政政策で高めてもらい、それに合わせて、インフレ目標を高めたあとでブレーキを踏む、という提案が現実味を帯びる。
メインストリームの経済学者のなかには再び熱心にインフレ目標引き上げを提言する人も増えるかもしれない。

この予想が興味深いのは、再びリフレ提案が無垢の一般市民の直観の逆を提案している点だろう。
今、アメリカ人や米国を見ている人の中では、米国のインフレを財政出動のやりすぎ、金融緩和のやりすぎと見る人が多いのではないか。
もちろん政権に騙されて、企業の強欲やウクライナ戦争のためと考える人もいるのだろうが、時系列を見ればそうでないことは明らかだ。
パンデミックを要因とするのは正しい見方だが、もはやパンデミック解消をもってインフレが完全にパンデミック前に戻ると考える人は少ない。
こうした状況の中で、翁氏が予想する可能性は(表面的には)財政・金融政策のさらなる拡張だ。

本書は間違いなく良書であり、経済政策に関心のある人なら読んで損はない。
また、経済政策を知らない人にとってもキャッチ・アップの良い機会だ。

その一方で、民間の実務家としてはもはやワクワクすることのない話題でもある。
異次元緩和については、その理論的枠組みが間違っていたとは思わないが、当初から成功を予想する民間エコノミストは少なかった。
日銀がいうような時間軸で2%物価目標が達成されると予想する人は(当局の太鼓持ちを除けば)皆無に近かった。
期待をアンカーしたいなら、もう少し現実的な目標を立てるべきとの指摘が多かった。
結果は心配どおりになった。
民間が予想しないのだから、日銀が期待をうまく誘導できるはずはなかった。
一方、異次元緩和が始まった時、事の正邪は別として、日本が《ルビコン川を渡った》と喩える人が何人かいた。
もはや帰れない道を進んだというわけであり、まさに今、私たちはそういう道を歩いている。

この数年、日銀は市場にとってさしたる関心事でなくなっている。
仮に今後利上げが始まるなら注目を集めるだろうが、日銀の発言にその気配はない。
仮に今後、翁氏の提示した可能性のようにグローバル・スタンダードが変わり、舶来モノ好きの日本が追随するなら、それは過去続けてきた《フィールド・オブ・ドリームズ》をただただ継続する道になる。
つまり、投資家は何も驚く必要がない。
投資家が知るべきは、可能な限り、財政出動が行われ、金融緩和が続けられるだろうということ。
ここで《可能な限り》といったのは、いつか可能でなくなるだろうからだ。
それがどういう形で訪れるかは、もう読者は十分理解されているだろう。
その時が来るまでは、山谷あろうが、総じてリスク資産が名目で有利になるのだろう。